釣魚大全
釣魚大全
・『価値あるものと見なされるこの世の全ての楽しみと比べてみても魚とり。
これに勝るものはなし。』
・『説教する人、物書く人、宣誓する人、戦う人。利益の為か、娯楽の為か、
いずれにしても最後の勝利者これ魚とり。』
By トーマス・ダーフィー 「釣り人の歌」
■1653年に「釣魚大全」はこの世に出た。ウォルトンが60歳の時である。第一次大戦前のイギリスの急激な産業化・都市化を背景に「釣魚大全」に描かれる理想の田園風景と娯楽は、イギリスの人々の懐かしき理想郷となった。
釣魚の術を広める為の書であると同時に、「ともに杯を交わし、歌を歌う人々、水辺の美しい景色、素朴な運動と瞑想、そして快い眠り」このような理想の田園での娯楽が描かれている。
釣り師、猟師、鷹匠の3人の対話で構成されており「川岸に立ち、釣り糸を垂れるあの気分を書いたものである」とウォルトンは言っている。当時の釣りの最新の技術書であり、もう一つのレクリエーション(瞑想)を生み出している。
「釣魚大全」が世界中で今尚、愛され読み継がれている理由は、初版の最後にある「争いを憎み、静けさと徳と釣りを愛する全ての人々の上に、祝福がありますように」という文、そして第二版以降に付け加えられた、
「Study to be quiet」=静かなる事を学べ
という言葉にこの本の精神が集約されているように、人の持つ普遍的な要素がそこにはあるのであろう。釣りこそ瞑想と行動の調和をもたらしてくれると説いている。
□ ウォルトンの生涯
■1593年に生まれたウォルトンは波乱に満ちた人生を歩んでいる。5歳の時に父親をなくし、その後、母は再婚する。義兄の元で徒弟として働き、1626 年に一度目の結婚をし、誠実な人柄と努力で独立し成功を収める。しかし、幸福な生活は長く続かなかった。生まれた7人の子供はすべて幼いうちに死んでしまい、妻も1640年になくなってしまう。1646年に再婚し長男が生まれるがすぐ死んでしまう。幸い長女と次男は生き残り、晩年のウォルトンを助けるが、後妻は1662年に彼をおいて先立ってしまうのである。晩年は静かな余生を送り、90歳の長寿を全うして1683年に永眠する。その墓はウインチェスターの大聖堂にある。
ウォルトンの生きた時代も決してのどかなものではなかった。海外では植民地経営を盛んにし、国内ではエリザベス女王の治世の末期状態にあり、女王が没すると専制君主政治が王党派と国民議会派の争いを繰り広げていた。1649年に国王専制は倒されて、国王は処刑され共和政治体制になった。しかし1660年には共和体制から王政復古になるという動乱の時代であった。
私の釣魚大全
釣魚大全?
実は釣魚大全は第二部があります。チャールズコットンというフライフィッシャーマンが書いたフライフィッシングの本です。
■名著『釣魚大全第二部』のほとんどはフライフィッシングに関する内容なので、その翻訳は自身がフライフィッシャーマンでないと難しい部分が多い。それも英語をよくこなすだけでなく、この釣りの歴史や現状について幅広い知識を兼ね備え、なおかつこれが肝心なことだが、悩み多き詩人でもあったコットンその人についても一家言持っているに越したことはない。霜田俊憲氏はこれらの理想条件をすべてクリアする得難い訳者である。その意味でもこの本は画期的であり、こう訳してこそフライフィッシング、耳を澄ませば川の音が聞こえてきそうだ。あの時代に「こんなことまでやっていたのか」という驚きの数々と心からの尊敬。ぼくたちは先覚者コットンの落ち穂拾いをしているにすぎない。(島崎憲司郎)※フライの雑誌から引用
■目次
コットンの献辞 敬愛してやまない私の父にして友、アイザック・ウォールトン氏にささぐ
第一章 釣師と旅人、道中の邂逅
第二章 ダービシャーの川、そしてコットン邸への到着
第三章 釣り小屋風景
第四章 鱒とグレーリングの釣り方
第六章 パイク・プールの釣り
第七章 一月から五月までの毛鉤とメイフライ
第八章 六月から十二月までの毛鉤
第九章 旅人の釣り
第一〇章 コットンの鱒料理
第一一章 鱒とグレーリングの底釣り
第一二章 鱒とグレーリングの中層の釣り
ウォールトンの献辞 私のもっとも尊い友 チャールズ・コットン殿へ
隠棲 アイザック・ウォールトン氏に捧げる連詩
チャールズ・コットン、人と生涯
チャールズ・コットンの釣り
コットンとウォールトンの友情
あとがきにかえて